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1940年代から70年代まで、第一線で活躍。アメリカ映画の〈良心〉を象徴する存在として、世界中に多くのファンを持った名優スター。
1916年4月5日、カリフォルニア州ラジョラ生まれ。カリフォルニア大学で薬学を専攻。将来は生まれ故郷で薬屋を営むことを目標に勉学に励んでいたが、演劇部に所属する友人の影響で舞台に立つことの面白さを知り、演劇を志すようになった。大学卒業後、ニューヨークへ移り住み、ゲームセンターの従業員、ラジオシティーホールの案内係など職を転々としながら、ネーバーフッド演劇学校に学ぶ。
全米巡業のサマーキャンプ劇団やブロードウェイの舞台を経て、ハリウッドの俳優エージェントで有名なケーシー・ロビンソンに認められ、43年『Day of Glory』(テレビ放映題『炎のロシア戦線』)で映画デビューを飾る。続く『王国の鍵』に主演、ハリウッド映画界期待の新星、二枚目の美男スターとして売り出す。以後、端正なマスクで世界中のファンを魅了し、アメリカ映画を代表する大スターとなっていく。
早くからキング・ヴィダー、クラレンス・ブラウン、ヘンリー・キングといったサイレント時代からの名匠監督らに起用され、着実に大スターとしての基盤を築いていった。一方で、アメリカ映画で活躍し出したアルフレッド・ヒッチコックともコンビを組むなど、野心も見せた。62年、『アラバマ物語』でアカデミー賞主演男優賞を受賞した。
ウィリアム・ワイラー監督とはこの『ローマの休日』で初めてコンビを組み、5年後、ペック自ら設立した製作プロダクションとワイラー監督の製作プロダクションとのコラボレーションによって『大いなる西部』という西部劇史に燦然と輝く名作を世に送り出すことになる。
デビュー以来、その誠実さでハリウッド映画人の手本となり、若手俳優を指導する立場となっていった。『ローマの休日』撮影中、当時新人だったオードリー・ヘプバーンをサポートし続けたのは有名。「現実的で実直な人。心から親切にしてくれました」と後年、オードリー・ヘプバーンは『ローマの休日』撮影中を振り返り、グレゴリー・ペックの紳士的な態度がいかに素晴らしいサポートだったかを話している。67年、「アカデミー賞」を選出する〈アメリカ映画芸術科学アカデミー〉の会長職に就き、アメリカ映画の発展に寄与している。68年に「セシル・B・デミル賞」、89年に「カンヌ国際映画祭特別賞」が贈られている。2003年6月12日に87歳で死去。
《出演作品》
(日本公開作) 『王国の鍵』(44) 『白い恐怖』(45) 『愛の決断』(45) 『子鹿物語』(47年、ゴールデングローブ賞主演男優賞受賞) 『パラダイン夫人の恋』(47) 『白昼の決闘』(48) 『廃墟の群盗』(48) 『頭上の敵機』(49年、NY批評家協会主演男優賞受賞) 『拳銃王』(50) 『勇者のみ』(51) 『艦長ホレーショ』(51) 『愛欲の十字路』(51) 『世界を彼の腕に』(52) 『キリマンジャロの雪』(52) 『ローマの休日』(53) 『夜の人々』(53) 『春風と百万紙幣』(54) 『紫の平原』(54) 『白鯨』(56) 『灰色の服を着た男』(56) 『バラの肌着』(57) 『無頼の群』 (58)『大いなる西部』(58) 『勝利なき戦い』(59) 『渚にて』(59) 『悲愁』(59) 『ナバロンの要塞』(61) 『恐怖の岬』(62) 『西部開拓史』(62) 『アラバマ物語』(62年、アカデミー賞主演男優賞受賞、ゴールデングローブ賞主演男優賞受賞)『ニューマンという男』(63) 『日曜日には鼠を殺せ』(64) 『稲妻の2年10ヶ月』(64年、ナレーション担当) 『蜃気楼』(65) 『アラベスク』(66) 『レッドムーン』(68) 『マッケンナの黄金』(69) 『0の決死圏』(69) 『宇宙からの脱出』(69) 『新・ガンヒルの決闘』(69) 『イッツ・ショー・タイム』(76年、特別出演) 『オーメン』(76) 『マッカーサー』(77) 『シーウルフ』(80) 『サイレント・ボイス 愛を虹にのせて』(87) 『私が愛したグリンゴ』(89) 『アザー・ピープルズ・マネー』(91) 『ケープ・フィアー』(91) 『テルミン』(93年、劇中に紹介される『白い恐怖』の場面出演のみ) |
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