- カテリーナ・スフォルツァ
- ミラノ公爵ガレアッツォ・スフォルツァの庶出の娘(1463年生まれ)。1477年にイモラ市の僭主(せんしゅ)ジローラモ・リアーリオと結婚。後にフォルリ市を手に入れる。1488年に夫がジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの陰謀で暗殺された際、市内の城に立て篭もり、叔父のイル・モーロの救援を待って市を奪還、息子の後見人として市に凱旋、苛烈な報復を行った。
- カンタレラ
- ボルジア家が使った暗殺用の毒薬とされる。歴史家ブルクハルトは当時の歴史家の記述を引用して、純白で美味だったとしている。渋澤龍彦はプトマイン(動物等の屍から作った毒)と砒素を混ぜ合わせたものだとしている。しかしチェーザレが還俗以降(1500年以降)、当時の科学者ローレンツ・ベハイムに使い勝手のよい毒を発明するよう依頼している書簡が残っており、それはボルジア家がそのような毒を持っていなかったことを明らかにしている。つまりカンタレラは伝説だったのである。
- システィーナ礼拝堂
- ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの叔父、教皇シクストゥス4世が1480年頃に、老朽化した旧大礼拝堂を改築したもの。当時、ミケランジェロのフレスコ画はなく、天井は星空、最後の審判の場所には聖母被昇天の絵があった。当時、教皇を選出するコンクラーベの枢機卿の宿舎となり、礼拝堂周辺は外部との接触が断たれることとなっていた。
- フィレンツェとメディチ家
- フィレンツェは12世紀から銀行業で栄えてきた。キリスト教では利子は許されず、銀行は両替の名目で利子をとった。また銀行家は、貿易による輸入品等を高く売るために、都市の手工業や周辺の農業は圧迫された。しかしメディチ家は、銀行家でありながら、自分たちに不利になる税制を採用するなどして民衆の不満に応え覇権を握ることに成功した。
- 火の試練
- 神明(しんめい)裁判の一種。フィレンツェの実権は、独断専行のピエロ・デ・メディチから怪僧サヴォナローラに移った。彼は預言者として政治を指導したが、教皇アレクサンデル6世から破門され、1498年、対立する修道士から「火の試練」の挑戦を受けた。実は、歴史的には、この「火の試練」は行われないまま反サヴォナローラの暴動が勃発することになる。こうして市当局に逮捕された彼は、宗教裁判の結果、異端の罪で火刑に処された。
- 傭兵
- ルネサンス・イタリアの軍隊の主力。当時は重装騎兵が戦力として圧倒的優位を誇ったが、高価な武装の準備や軍馬の飼育、激しい戦闘訓練などは一般市民には耐えられず、プロフェッショナルな軍人である傭兵が必要とされた。現代の一般的な感覚での徴兵された正規軍、つまり当時の市民兵からなる歩兵部隊は守備的な補助部隊に過ぎなかった。なお、イタリアに比して正規兵的とされた当時のフランス軍も実は傭兵的だったとされる。
- ボルジア家
- スペイン発祥のイタリア貴族。アレクサンデル6世が教皇の座に就くとたちまち勢力を拡大していく。教皇軍の強化のみならず文化、 芸術方面にも財力を注いだ。一般的なボルジア家のイメージは権力を維持するための暗殺や一族の好色さ、息子チェーザレと娘ルクレツィアの 近親相姦の噂などスキャンダラス色が強く、小説や漫画、映画さらには宝塚の舞台など題材となり注目され続けている。
- コンクラーベ
- 教皇選挙のこと。教皇崩御(退位)後に枢機卿弾が実施した。当時の持ち票は3票、選出には出席者の2/3以上の得票が必要とされた。 参加者は外部との接触を絶たれた状態でシスティーナ礼拝堂に寝泊まりし、小礼拝堂で投開票を行った。 教皇が絶大な権力を持っていた時代には政治的駆け引きの場だった。
- 教皇(ローマ教皇)
- カトリック教会の最高権威者。ローマ司教として初代ローマ司教、使徒ペテロの後継者。ペテロがキリストから天国天国の門の鍵を預かったため、キリストを代理 する。教皇庁のあるヴァチカンのサン(聖)・ピエトロ(イタリア語でペテロ)大聖堂下に聖ペテロの墓があるとされる。歴史的には4世紀から始まり、中世には広大な 教皇領を領有した。
- 教皇軍
- ローマ周辺の傭兵貴族、オルシーニ家やコロンナ家などから構成された教皇などから構成された教皇庁の軍。協会は知的能力ゆえに西ローマ帝国滅亡後も 生き残ったが、中心となった教皇庁は世俗的権力を獲得し、世俗世界の勢力争いに巻き込まれた。しかし軍事力を頼りつつ、ルネサンス期特有の傭兵を 雇ったのである。
- 売春
- 13世紀後半、娼婦は社会から隔離され排除される者とされ、区域して公営売春宿が出現した。しかし15世紀、イタリアでは歌や楽器を扱える教養のある 高級娼婦が出現した。枢機卿はこのような売春婦を愛人にした。
- ナポリ王国
- 南イタリアにあった王国。征服王朝であるスペイン系アラゴン家の分家から出たフェッテランテが王。フランス系の前王朝に王位継承権が残されていたため、 王は王権強化を図ったが有力貴族が反発、彼らは枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレと結んで反乱を起こした。